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とあるWebディレクターのブログ

『この世界の片隅に』:「物語」で語られる戦争の「事実」ではなく「真実」

2009年も8月15日がやってきました。 404 Blog Not Found:誠実なる無回答 - 画評 - この世界の片隅に
夕凪の街 桜の国」を読了したとき、あの戦争を描いた漫画で、あれ以上の傑作はありえないだろうと思ったが、私が間違っていた。 こうの史代を超えたのは、こうの史代だった。
まさしく。『夕凪の街 桜の国』は、2005年頃相当話題になっていて、読んで衝撃をうけたんですが、何が深く心に刺さったのか。 それは、こうの史代さんが『夕凪の街 桜の国』の「あとがき」で述べていたとおり、
わたしは広島市に生まれ育ちはしたけれど、被爆者でも被爆二世でもありません。被爆体験を語ってくれる親戚もありません。原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に「よその家の事情」でもありました。怖いという事だけ知っていればいい昔話で、何より踏み込んではいけない領域であるとずっと思ってきた。
という前提条件があった上で、「物語」として「太平洋戦争」を描ききったということだと思っています。ここでいう「物語」というのは「=フィクション」ではあるのですが、「フィクション≠事実」であっても「フィクション≠真実」ではないということを再認識させられました。 戦争を体験していない世代だからといって、戦争を語っていけないことはなく、また戦争を体験していないからこそ「物語」で戦争の真実を描こうというアプローチ。それは終戦から60年以上が経過し、実際の戦争体験者がどんどん少なくなっていくなかで、どのように後世に「あの戦争」を伝えて行ったらいいのかという問いに対する一つの答えでしょう。 その「答え=物語」は必ずしも事実ではありません。『この世界の片隅に』においても、リアルな当時の人々の生活の描写がありますが、結局はフィクションです。だからこそ、そこには「解答」がなく、それゆえ読者に「真実とは何か」を考えさせることができるのだろうと思います。 404 Blog Not Found:誠実なる無回答 - 画評 - この世界の片隅に
こうの史代作品には、オチがない。それも「さよなら絶望先生」のように、それ自体がネタになっているからオチがないわけではない。ましてや描くための手間ひまも能力もないからではない。ひたむきに、誠実に、答える義務が実はない答えを探し続け、それでも見つからないことを素直に「見つかりませんでした」というのが、こうの史代の答えだ。
こうの作品には、解答がない。 そして本作では、「夕凪の街 桜の国」にあったほのかな救い(のようなもの)もない。
僕自身、数年前に広島・長崎に行き、原爆ドームや資料館をめぐったことがあります。そこにあるのは圧倒的な「事実」です。ただ、「事実」でありすぎるが故、本当に悲しいし悔しいことではあるのだけれど、実際に戦争を体験していない人間にとってみれば、ある種の「距離感」(それは時間的なものなのか、空間的なものなのかはわかりませんが)を同時に感じもしました。 それは繰り返しになりますが、こうの史代さんの語るところの
わたしは広島市に生まれ育ちはしたけれど、被爆者でも被爆二世でもありません。被爆体験を語ってくれる親戚もありません。原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に「よその家の事情」でもありました。怖いという事だけ知っていればいい昔話で、何より踏み込んではいけない領域であるとずっと思ってきた。
「よその家の事情」、「踏み込んではいけない領域」という感覚に似ているものだと考えています。自分が経験できていないからこそ、「事実」として認識することはできても、それを語ったり論じたり、あまつさえ批判したりすることなどおこがましいという意識。 ただ、それではいけない。あの戦争を「歴史」にしてしまってはいけない。どうすれば、実際に戦争を体験していない人たちが、自分のこととしてコミットすることができるのか。その一つの答えが「物語」であり、こうの史代という「戦争を体験していない人」が語る「戦争」、『この世界の片隅に』という作品なのでしょう。 そして、そこには「事実」ではないけれど、まぎれもない「真実」があるのだろうと僕は思います。